![中岡慎太郎[なかおかしんたろう] 天保9年4月13日〜慶応3年11月17日 天保9年(1838)、土佐藩安芸郡北川村(高知県北川村)の大庄屋に生まれた。坂本龍馬とともに、幕末の激動期に走る尊王攘夷派の中にあって、醒めた眼で日本の現実を見通し、単なる感情でなく教養があり、理智にあふれ、信念を持って自らの道を歩んだ。常に先を見据え行動し続け、龍馬よりも先に薩長連合の下地を作り、大政奉還を構想し、薩土盟約を締結して武力倒幕を推進した。さらに三条実美と岩倉具視の手を結ばせ、これが明治の新政府に大きな役割を果たした。また陸援隊を創り、戊辰戦争でも活躍した。慎太郎は30年という短い生涯を全力で駆け抜けた。](img/naka_ikusa.gif)

中岡慎太郎は天保9年(1838)、現在の安芸郡北川村に大庄屋の息子として誕生した。 幼い時から勉学にはげみ、めきめきと力をつけていく。そして安政2年(1855)慎太郎は田野学館で武市半平太と出会い政治活動にめざめる。だが父が病に倒れたという知らせを受け、家業の大庄屋職をつぐ。
村に戻った慎太郎は、村人たちが安心して暮らせてこそ国が成り立つという意識を常に持っていた。水田がすくない村の飢饉対策としてゆずの栽培をすすめたのもこの時期といわれている。
文久元年(1861)、武市半平太は尊王攘夷運動を目的とする「土佐勤王党」を結成した。慎太郎も坂本龍馬もこれに加盟する。しかし2年後の文久3年8月18日に起こった政変で事態は一変、各地で尊王攘夷派の弾圧が始まる。身の危険を察した慎太郎は脱藩を決意する。
脱藩した慎太郎は長州藩のもとで様々な活躍をする。そして当時対立していた長州藩と薩摩藩の連合こそ新しい国づくりを進展できると確信した。時を同じくして同じ考えを持っていた龍馬と組み、薩長両藩の代表者を説得、慶応2年(1866)、ついに薩長連合を成立させた。
慶応3年(1867)、龍馬は海援隊を慎太郎は陸援隊を結成した。 徳川幕府を倒して新しい国家を築く目前に、京都近江屋で龍馬と会談中刺客に襲われ、わずか30歳でその生涯を閉じた。
◎大胆で度胸満点
◎無駄な時間は使わない、やると決めたら必ず実行する。
慎太郎は、歩くときは背筋をピンと伸ばして、両手を大きく振りながらすっすっと歩いていた。
決して無駄口をいわず、正しいと信じたことは他人にゆずらず断行した。

◎身長は153cmほど。
◎眼光が鋭く、黒眼が2つあった。
身長は中岡慎太郎館が所蔵している着用からわかります。
当時の平均身長156cm前後ですので、少し低い方になる。
◎田中光顕 談
「中岡は頗(すこぶ)るまじめな人で、即ち精神家であった。(中略)謹厳な男で、其の性格がよく西郷に似て居た。中岡は何時も西郷の人物を推賞し、西郷も亦中岡を賞賛して居た。」
◎板垣退助 談
「中岡慎太郎という男は立派に西郷、木戸と肩を並べて参議になるだけの人格を備えていた。」
※北川竹次郎に北川郷総老職になるよう説得する手紙のなかの言葉。
家がいつまでも裕福であるとは限らない。またいつまでも貧しいとは限らない。
人間として立派な人になるのか、目的もなく誘惑に負けてしまう人になるのかは、その人の心懸け次第である。
※(物事をなすには)土地を持つ者は土地を提供し、財産がある者は財産を提供するなど、その人の長所をフル活用することである。それらが集まるとやがて大きな力となるのだ。という意味である。
※薩長が新しい国家の中心となることを予言することば。
※慎太郎は、国同士の友好関係や国際秩序はバランス・オブ・パワーに左右されると洞察した。
これこそ「愚論窃かに知己の人に示す」(慶応二年一一月)と「兵談」(慶応三年七月二二日)にて西洋式軍隊の作り方を説いた理由である。


